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 世界中の人々が熱狂と感動につつまれた、冬季オリンピック・ソチ大会が終わりました。史上最大規模と謳われるほどの盛大な開会式を見た方は、その規模感と迫力に圧倒されたことでしょう。

 さて、オリンピックは終わりましたが、まだソチではスポーツマン同士の激しい闘いは続いています。それは御存知の通り、パラリンピックです。しかし「あれ、いつの間にか始まっている」とパラリンピックの競技開始後にニュースによって知るという人も多かったのではないでしょうか。

 オリンピックでは時間帯に関係なく開会式や競技の様子がテレビで放映され、新聞の一面を飾るほどの盛り上がりを見せるものの、パラリンピックの様子といえば朝やお昼のニュースでちらっと様子が伝えられるだけに過ぎません。健常者と障害者という違いこそあれ、出場する選手にとっては同じ価値を持つ舞台であるはずです。それにも関わらず、報道においてどうしてここまでの差がついてしまうのでしょうか。

 オリンピックとパラリンピックにその決定的な違いが出てしまう理由、それは大衆の注目度の差です。

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メディアにとっては大衆の興味こそが重要

 インターネットの発達でいつでもどこでも気になる情報を知れるような環境になっているとはいえ、インターネットを利用して情報収集している人はまだ一部のアーリーアダプターでしかなく、多くの人が情報を知りうる手段としてはテレビと新聞がまだ主流となっています。

 テレビや新聞というメディアが膨大な情報を精査し発信していく時の1つの基準として、大衆の興味関心があります。テレビや新聞のようなフロー型のメディアが求められるのはニュース性の高さ、つまり人々がその出来事に関してどれだけの興味安心を持っているのかということです。したがって、そこで競技する人の想いや感情は一切関係ありません。

 

メディアに対する姿勢

 とはいえ、必ずしも大衆の興味関心が汲み取られてニュースになるということはではありません。そこには金銭やその他の利害関係が大きく影響しあっていて、多くの場合歪曲された情報が我々のもとに届いています。

 メディアと言う観点から見た時のオリンピックとパラリンピックの違いからことから言えること、それは、いつまでも受動的なニュースの受け手のままでいたらただのメディアの操り人形になってしまう恐れがあるということです。自分が面白いと思っているニュースは、メディアや大衆の意見によって面白いと思い込まされている場合が多いということを覚えておかなければいけません。

 一見すると情報過多な時代のように思われますが、実は発信源によって篩いにかけられているので、我々のもとに届く情報というのはほんの一部に過ぎませんし、それが本物の情報かどうかということも分かりません。その中で自分の足で生きて行かねばならない私たちには、メディアや情報に対する振る舞い方を見直していくことが求められているのです。

 

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