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皆さんは、自分の人生が思い通りにならないことや、何だかわからないけれども、何か大きな力によって、自分自身の存在がきゅっと圧縮!なにがしろにされているような気分になる事はないだろうか。 筆者の身の回りでは、大学生という4年間のバカンスを経て、例の「社会人」になったばかりの人にこそ、そのような心持ちになっている方が多いように思える。

そりゃあ誰だって、あの特権階級の学生とやらを終えれば、辛く険しい修練の道が始まることくらい、覚悟しているだろう。でも、この窮屈を、本当に自明の事として片付けて良いのだろうか。実は、気づかぬ内に、今まで積み上げられて来た社会の暗黙の手錠に、身柄のみならず、心まで(!)拘束されてはいないだろうか?もっとあなたは自由な存在でいて、自分を余す事無く表現しながら生きていきたいと思っているはず。僕だってそう。

そしてそれが組織の中では難しいことだってわかってる!でも、なんだか息苦しくてしゃあねええんじゃいと、叫びたくなる時がある!ご安心ください。そういう葛藤を、みるみる内にすっ飛ばす、魔法のおっさんがいるのです。その人の生き様に触れると、あなたのことを知らず知らずに蝕んでいる、手枷足枷ケツ枷が瞬く間に爆散、あなたはとても自由な気持ちになれるのです。

少なくとも僕は迷うたびに、立ち返るべき生き様として設定しています。本コラムでは、世の中の圧力を、宇宙的とも呼べる得体の知れない能力によって、フルスイングで殴り飛ばしているお方を紹介する。芸術家兼科学者兼建築家である「荒川修作」氏の生き様を垣間みることによって、少しでも皆様がエネルギッシュに生きるための活力になれば幸いです。

読み易いように分割し、勿体ぶった連載形式でお送りいたします。

 

奇才中の奇才、幼少期から青年期まで

荒川修作少年、幼少期は何をしていたかと言うと、周囲が野山を駆け回っているのを尻目に、五歳で「看護師」としてのキャリアをスタート。1936年、名古屋にてごくごく普通の両親のもとに生まれた荒川少年は、当時、自宅の庭を共有していた医師のもとに毎日通い詰め、手術の助手等を通して医学の道を独学で学びつつ、画家である医師の妻からは、デッサンを習っていたというのだから、人生の序章からしてとにかくギンギンである。

医学を通して人間の身体の構造に精通する一方で、抜群に絵の上手くなった荒川は、周囲の猛プッシュにより、武蔵野美術大学に入学するも、三週間で中退。

「いろんな先生方にみんな会ったんですよ。それで、あんまりにも先生方が酷かったから、大学なんか行かない方がいいって言って、やめちゃったの、全部。」

そ、、そうなんですか、、。

 

お前はこんなところにいるような人間ではない

天才のストーリーには付き物のこの台詞、当然荒川もこの言葉によって、あれよあれよと次なるステージに運ばれていく。理解者として大きな役目を果たしたのが、日本におけるシュールリアリズム(超現実主義。ルネ•マグリットなどが有名)の第一人者、瀧口修造。彼は突然、荒川を訪ねてくる。そしてその時に彼が制作していた「棺桶」シリーズを瀧口の計らいで、世に公開したところ、一瞬で高値がついた。

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写真は、その内の一作品「抗生物質と子音に挟まれたアインシュタイン」

どこか人体の構成要素だと思わせる有機性と、死をイメージさせる棺桶。得体の知れない迫力で生死が混在する様を、見る者の脳裏に突きつける。そもそも作品名が目眩を呼ぶ。その後、荒川は瀧口も深く関わっている「読売アンデパンダン展」に1958年、22歳の若さで初出典。大絶賛を浴びる。

この展覧会は、読売新聞という大きなスポンサーのもとで、若手の芸術家を発掘する目的で行われ、無審査で出展ができる。少し本題からは逸れるが、この展覧会は後に前衛芸術家の格好の餌食となった。同展は、端的に言うと「意味不明だし、エロいし、グロいよ」というものまで含む形で「反芸術」的な、芸術の概念そのものをひっくり返そうとするような作品で溢れ、常に紛糾、逮捕者まで続出したため、1963年をもって開催が打ち切られたというカオスな場である。

瀧口自身、当時は生活費にも困るような状況であったのにも関わらず(彼のシュールリアリズムに見られる前衛的な思想が、治安維持法違反として逮捕され危険視されていた事と無関係ではないはず)、荒川に餞別という形で渡した本の中に、当時の6万円(現在の30万円ほどの価値)をこっそりと封入し、NYのマルセル•デュシャンのもとに渡米させた。

ところで、マルセル•デュシャンという名前を聞いたことのあるという方も多いのではないだろうか。

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 ―レディ•メイドのオブジェと称して、ただの便器を、自身が委員をつとめるニューヨーク•アンデパンダン展に「泉」という作品で発表し、当時の美術界を大混乱に陥れた人物である。更に彼は自分が制作者であることを伏せた状態で、委員としてこの作品に抗議する書面を新聞に発表するなどして、荒らしの限りを尽くす。

そんな彼は中学や高校の美術の教科者でも必ず登場する、あの有名な便器の人だったのである―

「荒川、お前のようなやつはもう絶対に日本に帰ってくるな」

そんな瀧口の期待メガ盛りのお金の存在など知らぬまま、片手にぶら下げた荷物と、デュシャンの電話番号が書かれた切れ端をもう一方の片手に、1961年の2月、大雪の中、荒川はケネディ空港に佇むのであった。

荒川修作、25歳の時である。

ーー続くーー

 

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