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前回の記事(http://credo.asia/2014/03/16/arakawa_1/)に引き続き、今回も真性の天才、荒川修作氏の生き様から、私たち現代人がこの激動の時代をサバイバルしていくために、このような人物がかつて地上の活火山として爆発に継ぐ爆発をしていたという事実から、ひとひらのインスピレーションを頂戴しようというのが本コラムの趣旨であります。

さて、早速彼の人生を紐解いて参りましょう。

 

未知との遭遇〜マルセル・デュシャンとアラ・カワ〜

ケネディ空港に降り立った荒川修作。 彼はほとんど手ぶらと言っていい程の軽装で積雪1メートル以上の地に佇んでいたため、彼は自身の本来の目的を果たす以外、特に他にやるべき事などなかった。瀧口にもらったデュシャンの電話番号に、荒川はおもむろに電話をかける。

 電話はすぐに繋がり、初老の女性の声がそれに応答した。荒川はたどたどしい英語で名前と要件を告げると、その女性はすぐに芳しい反応を示した。「アラ・カワ!あなた、何度も手紙を主人にくれたでしょう?アラ!あなた今どこにいるの?ポケットの中には何ドル入っているの?バスに乗ってワシントン・スクエアまで来なさい。」

デュシャンの妻、ティーニー・デュシャン(Alexina Teeny Duchamp)である。荒川はあらかじめ、瀧口に赤字で添削してもらいながら、たどたどしい英語でデュシャンに思いの丈を綴った手紙を送っていたのである。ただ、彼は瀧口に赤字で添削された手紙を、直さずにそのままデュシャンに送っていたために、デュシャン夫妻の間でもアラカワという人物は奇妙な存在として認知されていたのである。

先方にはアラ・カワという名前の男だと勘違いされていたが、荒川本人も「それがどうした!私は自分の名前すらしょっちゅう忘れる!」と後年、あらゆるところで豪語していた通り、特に訂正せずそのまま通している。「グリーンのハットとグリーンのコートを着てワシントン・スクエアに一人で立っている老人がいたら、私だから、来い」

その言葉だけを頼りに、ブロークンインイングリッシュを駆使して、ワシントン・スクエアに辿り着くと、そこには一人の男が立っていた。マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)、その人である。デュシャンは開口一番、「お前、アラだろう。腹は減っているか、着いてこい。」それだけ言うと、荒川を近所のみすぼらしいイタリアンレストランに連れて行き、「俺の言う通りにしろ。」と言い放ち、「spaghetti without sauce」を二人前注文し、二人は黙ってそれを完食した。

荒川はデュシャンの死後に知ったことだが、彼は禅の思想をはじめとした日本文化についてかなりの見識があり、そのため、日本人が白米をそのまま食べるという食文化になぞらえて、デュシャン流のジョークで荒川をもてなしたのが先ほどの食事だったというわけである。

 

感電するように繋がり合う一流たち

荒川がニューヨークで生活を初めてからというもの、次々と荒川修作という人間に吸い寄せられるように、一流が一流を呼び、繋がり合っていった。

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まず、最初に荒川に感電したのは、「オノ・ヨーコ」。言わずと知れた、後のジョン・レノンの妻である。彼女は荒川に自身のスタジオを貸し与えると、「あなたに紹介したい人がいるの。」そう言って紹介された人は、前衛音楽家の「ジョン・ケージ(John Milton Cage Jr)」である。

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ジョン・ケージの作品は「4分33秒」という曲が有名で、それは例えばあなたがこの記事を読みながら、イヤフォン等で音楽を聞いていなかった場合、現時点から4分33秒前から演奏が始まっている、無音の音楽とも言える。

 初演は1952年にニューヨークでピアニストの手を借りて行われ、曲が始まってからは、第1~第3楽章まで、彼は楽器と共にうすらぼんやりとしていたのである。その間の観客のどよめきや外から吹き込む風の音、鳥のさえずり、聞いている人それぞれの鼓動の音、それら全てがジョン・ケージの音楽というわけである。

 余談だが、ジョン・ケージにはキノコ研究家としての側面もあり、山に分け入っては微細な振動を感知し、その姿が見えずともマッシュルームの在処を突き止めることが可能らしく、後年、荒川にこの技術を山中で自慢しようとしたところ、当時若かった荒川に、「そのバイブレーションは俺が一番好きなものだ」と一蹴されて絶句したという逸話が残されている。

 そのため荒川は音楽というものは自然界に存在する美しい振動に比べ、削ぎ落され、簡略化された、彼の言葉で言うと「reduction(減少、修正)」されたものだという持論があるために、彼の人生においてミュージシャンとの衝突は枚挙にいとまが無い。

 このような前衛音楽家の大家ジョン・ケージとの逸話もさることながら、オノ・ヨーコから譲り受けたスタジオに入居してから2、3ヶ月後、荒川の姿は1960年代当時、世界でも指折りの影響力を持ったニューヨークの台風の目とも言える男の目に留まったのだった。

 その男とは、アンディ・ウォーホル(Andy Warhol)。

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その名前を聞いたことが無くても、彼の巻き起こしたポップアートの旋風が現代の我々の享受している文化に如何に地続きであるかは、5分あれば誰だって納得に至るところである。今振り返ると壮絶なエネルギーの渦中にいた荒川だが、当の本人はどこ吹く風、普段通りの奇想天外さでもって、ウォーホルが毎週のように荒川をディナーに誘うようになる未来を当たり前のように受け入れるだけである。

1962年。ニューヨークには夏が訪れていた。

荒川修作、26歳の頃の話である。

ーー続くーー

 

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