インドネシアの学校始業時間論争から見る、宗教的慣習の社会学的意義

【読了時間:約 5分

4/25の読売新聞の朝刊にとても面白い記事が出ていました。「インドネシアで学校始業時間6:30論争」というニュースです。

DSC_5216

インドネシア政府は、世界的にみても始業が早く「子供の負担が大きい」との批判に配慮し「午前6時半」とする現行の公立学校の始業時間を遅らせる方針を打ち出したが、「イスラム教の礼拝を子供が怠けてしまう」と懸念する反対論も飛び出し、論争に発展しているようです。

6:30が始業時間として適切かどうかの議論はさておき…この記事の面白さは、「宗教的慣習の現代への不適応性」をめぐる議論がイスラーム教国内に起こったということでしょう。そこで、このテーマを基に、宗教的慣習がどうして存在し続けるのか。その理由をイスラム教の概観も含めて考えていきたいと思います。

 

1.イスラム教徒が果たすべき義務

まず、イスラム教徒は六信五行というコーラン(聖典)に啓示されている義務を守らなければなりません。六信とは、『アッラー』、『天使』、『啓典』、『預言者』、『来世』、『定命』を信じること。五行とは、ムスリム(イスラム教徒)に課せられた以下、五つの義務行為のことです。

1.    「アッラーのほかに神はなく、ムハンマドは神の使徒である」という信仰告白(シャハーダ)を行う。
2.    夜明け、正午、午後、日没、夜半と1日5回の礼拝を行う。
3.    年収から一定額の喜捨(ザカート)をする。(いわゆる寄付ですね)
4.    イスラーム暦第9月のラマダン月に、夜明けから日没まで一切の食物並びに水を口にしない。(断食)
5.    第12月の巡礼月に(定められた方法で)メッカへ巡礼する。

本ニュースで問題になっているのは2番目の礼拝(サカート)ですが、礼拝は時間によって名称が変わります。そのため、本記事の礼拝とは明けがたから日の出までに行われる礼拝:ファジャルのことを指します。

さらに、ムスリムはコーランだけではなく、イスラーム法(シャリーヤ)を遵守しなくてはいけません。イスラーム法とは、コーランや預言者の言行録(ハーディス)を主に法源とする法律の体系のことで、個人のライフスタイルから国家のあり方まで幅広く規定するものです。

よく知られているように、「イスラーム教徒は豚を口にしてはならない」「飲酒禁止!」などはこのイスラーム法の規定によるものです。

 

2.宗教的慣習が現在に至るまで存在し続けている理由

たしかにイスラーム教には様々な規定が強い印象を受けがつですが、他の宗教も例外ではありません。例えば、以前シェアハウスを訪れたイスラエルの現役軍人Yotamはユダヤ教徒でした。

2014-04-13 10.35.47_R

(イスラエルの軍人 yotam)

ユダヤ教徒にもコーシェルという食事規定があるという話をしていました。乳製品と肉が一緒に食べてはいけなかったり、ヒレとウロコのない魚はNGだったりするそうです。そこで僕はどうして乳製品と肉を一緒に食べてはいけないの?と尋ねると、彼は旧約聖書(ユダヤ教の聖典)に「小ヤギをその母の乳で煮てはいけない」(出エジプト23:19など)という規定があるからだと答えていました。

それでは、どうして聖典に書かれるようになり、現在に至るまでこのような規則が守られ続けるのでしょうか?おそらく、このように規則化し慣習化することによる合理性が十分にあったからです。では、その合理性とは何か?それは、信仰集団の結束強化と次世代への再生産に大きく寄与するということです。

例えば、先ほど例に挙げた食事規制ですが、異教徒との結婚はおろか、接触することすら難しくなります。特に近代以前においては、輸送手段も乏しく食すことのできるものも限られていたでしょう。異教徒との接触や結婚を禁じることにより、親から子そして孫へと、「信仰」が受け継がれることになります。

宗教とは家屋やお金という形あるものではなく、カタチのない精神的なものですので、徐々に風化していってしまいます。あまたの宗教にとって、信仰者を増やすだけでなく次世代へしっかりと引き継ぐことが最重要課題だったのでしょう。現在の主要な宗教はこのようにして、現在に至るまで信仰を受け継ぐことに成功したのです。

 

3.グローバル社会と宗教的慣習

「異教徒との接触を防ぐため」にできた宗教的な規則ですが、現在のグローバル時代においてはかなり深刻な問題です先日、東京大学でもムスリムの食事規制に配慮した「ハラルメニュー」が食堂で頼むことができるようになりましたが、2020年にオリンピックパラリンピック開催を控えた、東京でもこのような対応は急務でしょう。

宗教上のこのような慣習や規則というテーマは、本当に議論しづらいことです。なぜならば、信仰者にとってその慣習や規則というのは「善悪」を超越してしまっているからです。

この「学校始業時間論争」ですが、結局はグローバル社会の到来による他国との差異を意識することで生まれたものです。世界が「インドネシア国内」だけであれば、従来通りで良かったはずです。どのような結論をだすのか、非常に楽しみです。

<参考文献>

橋爪大三郎 著 「世界がわかる宗教社会学入門 (ちくま文庫)」
日本アハマディアムスリム教会ナレッジサイト

Credoをフォローする