古市太郎さんと地域の未来について語る 後編

【読了時間:約 10分

こんにちは、Credo編集長の前島です。前編に引き続き社会哲学者の古市太郎さんのお話をお送りします。法政大学大学院で社会学を研究しているライターの山田さんも同伴しました。前編の記事はこちらから。

huruichi2

古市:もんじゃ焼きはたしかにどこにでもありますよね。もんじゃ焼きは国道4号線沿いに多いのです。日光街道と中山道に多いのです。伊勢崎や草加などですね。いずれは連携してもんじゃ焼きの小麦粉文化圏として手を組むのではないでしょうか。一つの町でダメになったら手を組むしかないですからね。

前島:お話を伺っていて古市さんのイメージが変わりました。論文だけを読ませていただくと、非常に近代化とか資本主義化を批判する立場なのかと思っていました。

僕が読んだ月島に関する研究ですと、デュルケームの「聖」と「俗」の話で、俗の価値観でずっと経済的な利益や有効性のみが追求されるようになると、共同体が維持されないという話がありました。

ですから、懐古主義というか村社会に回帰して円環型(※共同体の祭りなどが定期的にあって、同じことを毎年繰り返しながら共同体が維持されていく生活)の社会を作る方が良いというような主張をされる方なのだと思っていました。

それよりはもっと、実用主義というか、地域の人たちの幸せになることがまず第一義としてあって、方法はあまり問わないのだという印象を今日受けました。

古市:そうですね、研究室的には近代批判のゼミだったので、今指摘されたような視点は確かにあると思います。取り扱ってる学者もそうですし。しかし、単純に近代批判をしているのかというと全くそんなことはないです。

ありきたりですが、結局昔からあるものと今ある現代的な文脈をどうやって組み合わせるかということが重要だと考えています。その組み合わせる時のポイントが、地域の方向性に合っていなければならないと考えています。

例えば、あの子センスがいいね、って言うときってそれはその人の、身丈とか形とか体とかそういったものに服も靴下もパンツも服装も帽子も合っているから、バランス取れているからセンスが良いと思うわけじゃないですか。一方でセンスがないといのは、その人が向かってく方向性にその他の物事が合っていない時ですよね。

街づくりで言えば、鈴鹿市で町おこししたいという時にもんじゃ焼きをやろうとしても合わないですよね。なぜ合わないのかと考えると、地域の文脈にあってないからです。

昔のものと今のものを組み合わせる時に、組み合っているのか合っていないのかをしっかり考えることが重要だと思います。そのことがわかっていれば懐古主義でも実用主義でも良いと思いますね。

 

大学の授業について

前島:大学ではどのような授業をされているのですか?

古市:担当は地域社会学、環境社会学、NPO論などをやっています。大学の基礎科目の授業というのは一種の古典芸能ですよね。新しいこともやりたいのですが、難しい部分もありますね。

理論的なことを学びつつ、今の現代的な文脈ではこんな例がありますということで、15回授業するうちの後半は実践的なことや新しいこともやります。理論も大事ですが、新しいものも大事だと思うのです。現代は問題がすごい勢いで高度化し多様化してきていると言われていますよね。

すべての物事を読み解くわけではないけれども、現場の視点とか視座みたいなものをお土産に持って帰る授業ってのは大事だと思うのです。色々な問題だけ話として沢山聞いたけれど、「検索すれば分かるじゃないか」みたいなこと言われると大学の意味がないですからね。

結構そういう授業が社会学の分野には多いのです。知識は与えられたけど、それをどう応用するのですかというような。知識を実践の場で腑に落とすような場は必要ですよね。自分自身の研究としては最近はマルセル・モース(※フランスの社会学者、文化人類学者)の「贈与論」というものを研究しています。

街づくりにも当てはまるのですが、人間関係の構築や信頼関係を根本的に作るにはどういうことが必要なのかということを考えていまして、そのことに関する重要な視点を贈与論は与えてくれるのです。

先ほどお話した他者性の視点に加えて、損得勘定などの合理的な感覚だけでは人間関係の維持はできないだとうということはずっと思っていました。「そういう合理的なもの以外のものが実は人間関係を支えているということはみんな当たり前に分かっているのですが、それを学問的に明らかにする」ということをやっています。

前島:「贈与論」はどういった理論なのですか?

古市:人間関係を形成するには「donner-recevoir-rendre」という3つの義務があると言われています。「与えて・受け取って・返す」っていう当たり前の行動です。日本語だったらお中元とかお歳暮のような感覚ですね。それが回ることで、信頼関係が構築できていくというのが贈与論の基本的な考え方です。

贈与論を未開社会や昔の伝統社会などではなくて、それは人間社会に通底している1つの原理的なものなのだということを現代的に展開していこうと思っています。贈与論的システムがうまく回っていっている地域というのは、恐らく人間関係や社会関係を上手く構築できているのだと思います。

 

贈与はゆっくり長くつづくもの

山田:信頼感を生むような、与える・受け取る・返すという流れの中で、それでも他者性が出てくる、それが断絶するような瞬間というのはどういった場面があるのでしょうか・

古市:それはもう、いつもですよ。たとえば、与えても自分に返ってこないときですよね。誰かに与えられたら自分も誰かに与えなければいけないと思いますよね。そうすると、与える相手はその直接与えられた人に返さなくても、誰かでも良いわけですよ。

映画の『ペイフォワード』みたいなものですね。3.11の時に関西の人がなぜボランティアに多く参加したのかというと、自分たちもお世話になったからあそこに返しに行かなくてはならないという感覚があったのだと思います。何かを与える前に与えられているということをモチベーションにして動いている人は多いと思います。

前島:日常的な感覚としては何か得ることを目的として何かをやるじゃないですか。贈与論だともう常に何か貰っているから、そのお返しとして何かをやらなければならない。順序が逆ですよね。

古市:そういった人間関係の構築の仕方の方が継続性は高いと思っています。

 

これからの生き方

前島:今後はどういった生き方をしていく予定ですか。

古市:研究者としては、理論と現場をずっと往復して生きたいですね。そうしないと、学生にも説得的に物事を語れないと思います。インターネットの登場によって知が崩壊したとよく言われています。今や知識というものは誰でもどこでも知ることができるのです。

しかしその知識の持つリアリティや現実感をどう出すかということはやはり研究者の仕事なのです。それをやるためには理論と実践の往復は必須だと思います。知識だけでしたら僕らより時間もあるし、皆さんの方が探る能力は高いと思いますよ。

Googleで検索すれば調べられますからね。知識に対して現実感というかリアリティを出せるかどうかというところで、多分学生と僕らの違いを出して行かないと僕らがいる必要がなくなってしまいます。

前島:確かに。言葉としての知識だけであれば極端な話Googleを使いこなせる人の方がより多くを得ることができますからね。社会科学系の最近の若手研究者で現場に出ていかなければならない、ある意味象牙の塔だけではいけないと考えている人は多いのでしょうか。

古市:そういった大きな方向性はありますよね。一方で例えば、授業とかで法政とか東大とか六大学(東京、早稲田、慶應、立教、明治、法政)ではそういったフィールドに出て行くような授業はあまりないですよね。

前島:ないです、確かに。

古市:ですから、申し訳ないですけど六大の人たちに授業するのは楽なのです。何故かというと、難しい言葉でなんとなくわかった気にさせることが出来るからです。

「ジョルジョ・アガンベンの例外状態だ」「ホモ•サケルだ」などと言うと、考えて納得してくれますからね(笑)。僕が学生には現場に出てもらいたい理由は一言で言えば「言葉作り」なのです。どういうことかというと、社会科学の一番の根本問題というのは、自由と秩序の両立なのです。

個人的にやりたいことがあっても、社会の中でそれをやってはいけないルールがある。その矛盾をどう解決していくのかというのが社会科学の至上命題なのです。極端な例ですが、「俺は裸で町を歩きたいんだ」という人がいたとします。

しかし風営法的にはやってはいけないという、自由と秩序がぶつかった時に考える為の言葉が必要なのですが、その言葉が社会科学なのです。この言葉を与えるためには現場に出すのが一番良い方法なのです。

前島:単純な分け方ですけど、理論と実践があって、社会で自由と秩序の衝突があってそれを解消するための言葉として理論が生まれて来たと。さっき言っていた六大のケースだと理論だけを学んでいるので、リアリティがない。

現場に基づいた言葉を持つことができない。一方でフィールドばかりの授業だと、理論に基づかず最初から感覚だけで思考させてしまう側面がありますよね。

古市:そうですね、現場に出る時にも理論の言葉を持ってないとそれを纏められないのです。現場に出て、出てくる言葉としては「疲れたなあ」とか「難しい問題を抱えているなあ」ということに留まってしまいます。どのように難しいのかを語るには理論が必要ですよね。

言語化するためにはやっぱりある程度のトレーニング、理論習得は必要です。ですから理論と実践どちらにも偏ってはいけなくて、どちらもグルグル回りながらやっていく必要があります。

これからは「知のコーディネーター」とよく言いますが、理論だけをやっている人と実践に重きを置いている人の調整役が必要だと思います。高学歴になればなるほど、そういった責任を自覚するように今後なっていくとは思いますね。

前島:今日はありがとうございました。

Credoをフォローする