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大手メディアに先行する現場の画像

 日曜日の白昼、大勢の人が行き交う新宿駅で焼身自殺騒動がおこった。男性が鉄骨によじ上ってあぐらをかき、拡声器をつかって集団的自衛権の行使反対を訴えたのち、自らガソリンを浴びて火を放った。報道によれば一命を取り留めたそうだ。

 筆者は集団的自衛権の行使、あるいは現行の憲法改正の動きに断固反対である。命をかけるほど伝えるものをもった人間に対して、今まさに伝える仕事をしている筆者も何かしら応答をする必要があると思い、いちおう簡潔に書いておく。ただし今回はこの話題は展開しない。

 今回の騒動は、twitterやFacebookを通して瞬間的に拡散され、それは大手メディアの報道に先行した。多くの人が不自然な火だるまの画像などを見かけたことだろう。「カメラを向けるなんて、命を軽く扱うような行為をとるべきではない」「こんな画像をシェアしている人の気が知れない」と、目を背けたくなったり、嫌悪感を抱いた人も少なくない。これについて少し考えたい。


気をつけるべき、ショッキングな画像の投稿

 人が燃えている画像や動画を見かけて、投稿した人は一体どういうつもりでカメラを向けたのだろうかと、疑いを持たずにはいられない。それが普通の反応だ。他人の死を単なるひとつの情報として戯れるような行為は、やはり悪趣味であると言わざるを得ない。

 SNSでは、どんな投稿も不特定多数の人の目に触れる。そのSNSで、ショッキングな画像や動画が流れることを喜ぶ人は、まずほとんどいない。【閲覧注意】という文字を見かけるだけでも、暗い気持ちになる。

 WHOが宣言しているメディア向けの自殺予防のリファレンスをご存知の方も多いだろう。「繰り返し過剰に報道しない」「詳細な場所や手段を伝えない」など、簡潔なスローガンが並んでいるこのリファレンスは、要するに、自殺への想像力を駆り立てる表現を避けるための手引きだ。

 誰もがメディアとなっている今、こうしたメディア関係者向けのリファレンスを、一般のわたしたちも心がけておくことは重要だ。しかし現実はもっと厳しい。一人一人の心がけに訴えるだけでは、事態は到底解決しない。しかも現状は、心がけに訴えることすらも難しい。

 

ショッキングな出来事と「のぞき趣味」

 今春、六本木の森美術館でアンディ・ウォーホルの大規模な回顧展が行われた。その展覧会で、《自殺(シルバーの飛び降りる男)》という作品が展示されていた。この作品は、ビルの上から飛び降りている男の写真をシルクスクリーンに投影して作られている。

 ウォーホルは、この作品を『死と惨事』というシリーズに位置づけている。『死と惨事』シリーズには、他の題材として、電気椅子や自動車事故なども用いられている。ウォーホルの着想は鋭い。ショッキングな写真を複製することで、ショッキングな出来事が無菌化されてしまった事態を的確に表している。わたしたちの日々の生活がメディアに囲まれたことで、ショッキングな出来事は日常に溶けてしまったのだ。ウォーホルもこのように言っている。「陰惨な光景も、繰り返し見ていると何も感じなくなってくる」。

 この作品がえぐり出しているものは、それだけではない。

 一般にわたしたちは、痛々しい光景に出会うと、まず目を背けたくなる。しかし一方で、わたしたちは、何か非日常な事態が近くにあるときに「のぞきたい」気持ちに駆られることがある。野次馬根性というほどではないだろうが、わたしたちは時々、なんだか無性に「見たい」欲望をもってしまうことがある。

 このふたつの感情は矛盾している。しかし実際、わたしたちの誰もが、こうした相反するふたつの感情を持ってしまっているのだ。『死と惨事』シリーズの題材は、人々のこうした「のぞき趣味」を猛烈に挑発している。

 この屈折した「のぞき趣味」、今回の騒動でも、はっきりと姿を現していることが分かるだろう。

 

素朴な気分が飛び交う空間

 SNSは、人々の素朴な気分や思いを捕まえて、拡散させる。

 日々を暮らしていて、何か特定の気分や感情を抱くのは、本当に一瞬のことである。SNSが捕まえるのはその一瞬だ。その一瞬の鮮度を保つために、簡単かつ手軽に投稿できるよう多くのサービスは工夫を凝らしている。

    携帯電話やスマートフォン、携帯ゲーム機などを通して、わたしたちは気軽に写真を撮る行為を身につけた。些細な出来事だけでなく、何でもない風景でも、ふと心が触れたときにすぐカメラを向けること。これは21世紀になってわたしたちが手に入れた、新しい習慣だ。

 ついでに、写真を撮ることは色々な行為とセットになっている。twitterやinstagramに投稿する、加工してLINEで送るなど、色々と行為のバリエーションがあることはご存知だろう。そして、これらはほとんどなにも考えないで出来てしまう。(何しろ画像のやりとりは、文章よりもよく伝わることが多い。)

 これらはほとんど何も考えないまま出来てしまう。SNSは、わたしたちの気分や感情を、引き剥がして捕らえているのだ。だからSNSに投稿する際に「この投稿で不快な気持ちになる人がいるかもしれない」と立ち止まって考えることができても、その判断を飛ばして「こんなことがあった」と投稿することが出来てしまう。

 内田樹はtwitterの特性を「声が大きいほど遠くまで届かない」と言っている。

 つまり「小さい声ほど遠くまで届く」。言い得て妙だろう。些細なことほどよくRTされるし、そういうつぶやきたちは、いかにもtwitterらしく見える。

SNSとは、思考する前の素朴な気分が飛び交っている空間なのだ。

 

公私混同の空間とモラル

 メディアは、不特定多数の人が見る。その意味でメディアは、公共的なものだと言うことができる。公共的なものの反対は私的なもの、プライベートなものだ。

 さて、SNSも不特定多数の人の目に触れる。ソーシャルメディアとも呼ばれている。では果たしてSNSは公共的だと言えるだろうか?

 たしかに公共的と言えそうではある。しかしそれ以上にSNSがもたらしたものは、プライベートな空間の無数の乱立である。ここではプライベートな部分が、公共的な部分と複雑に絡み合っている。あえてキーワードにするならば、「公私混同の空間」と名付けられるだろうか。

 プライベートが基本にある空間では、全体の維持は一人一人の心がけ、モラルに頼っていくしかない。しかしモラルより前の、素朴な気分が高速で飛び交っているところで、このモラルを構築していくことはとても難しい。(たとえ自分で下品な投稿だと認識できていても、である。)それは現状がはっきりと表している。SNSのなかでのモラルを維持する方法。これは、今後さらに重要な問題となるだろう。わたしたちはこの問題を、腰を据えて考えなければならない。

photo by iPad Art Room

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