【読了時間:約 7分

都議員実名割り出しは野蛮?

社会はたった数人の議員さんを「こき下ろし」ても、変わりません。都議員のヤジとイヤらしい笑いの行く方は、とても残念な方向に進んできました。

精神分析学者のフロイトは、誰かを「イジメ」ることにより、私たちは連帯感を得て、結束することができると分析します。(ジグムント・フロイト(1921)『集団心理学と自我の分析』)

哲学者ベルクソンは、誰かを「笑いものにする」ことは、社会の偏見と深く関連していると考察しています。(アンリ・ベルクソン(1976)『笑い』岩波文庫)

つまりセクハラヤジを飛ばし、そして議員達がそれを笑うという行為が、そしてそれに「ああだこうだ」言う私たちのループそのものが一つのカタルシスとなっています。

カタルシスとは、アリストテレスが『詩学』のなかで使った演劇用語で、「悲劇をみたときに、観客にもたらされる感情が浄化される作用」とされます。セクハラヤジでいうカタルシスとは、女性に対する男性の優越感、支配感の獲得、そして嘲笑することによって得られる私たちの「社会的偏見」だと言えるでしょう。

言い換えれば、都議会はヤジだけでなく、その場全員でひとりの女性を性的に辱める場に変わったのでした。ここでいう「性的」とは、社会的性別としてのジェンダーであり(「早く結婚しろ!」)、また生物学的な「性」でもあります(「産めないのか?」)。

今の日本には、その空気をひっくり返すようなスーパーマン(英雄)も存在しません。結局、辱められた本人を含め、その場の誰もがイジメ、あるいは「レイプの現場」と言っても良い、言葉による暴力の現場の傍観者となりました。

多くの議員は、その後も自分の身を守ることに必死でした。

「私じゃない。ヤジを言った人は辞職すべき」(謝罪した人の最初の意見)

「聞いてなかった。皆が笑っているので一緒に笑っただけ(舛添要一都知事)」

 イジメの空気に抗えなかったそのこと自体を謝罪する人は一人もいなかったのです。それどころか、上記発言のように、誰もがそれとは気付かず、「一緒になって笑った」と、うっかりイジメの空気をみんなでつくったことを白状しました。つまり、日本でイジメに屈しないということは、東京都議員の皆さんでさえもできない、とても大変なことなんですね。

 

この「いやな感じ」は何?

そして世界中がこの女性を辱める東京の議会の目撃者となりました。

現在、中国の覇権主義 はケシカラン!というのは、政府の立場です。覇権主義とは「自国の利益のためには、対話や妥協という外交上最も高等で芸術的な手段ではなく、相手国を挑発、威嚇したりして暴力という手段で解決しようとする軍事・外交のやり方」のことです。

ところが、政治家が国内でやっていることは、弱いものイジメであり、ほとんど中国のモノマネでした。世界的に信頼を失ったのは言うまでもありません。日本の女性議員の割合は約8%で先進国で最低、九割以上の男性議員でセクハラ、イジメなどするには、とても都合がよいのです。

圧倒的少数なので、事件はいつでももみ消すことができますし、団結して反撃してきても数が知れている、思っているからです。

josei

典拠: Catalyst; European Professional Women’s Network; Corporate Women Directors International; Statistics Norway(ノルウェー、アメリカは2009年、カナダは2007年のデータ)

グラフから分かるように、1988年に「公的機関ではそれぞれの性が構成員の40%を超えなければならない」という制度を導入したノルウェーでは、現在、女性閣僚も4割を超えています。これに対し、世界経済フォーラムが発表した女性の社会進出度(2012年)では、日本は135カ国中、101位です。

現在、2020年までに男性の育児休業取得率を13%にまで上げる(2011年は2.63%)という「女性が輝く日本」という成長戦略が掲げられています。男性の育児休業取得率の数値目標が、たったの13%というのは、女性を見下しているとは思いませんか?

 

女性を見下したまま、女性に輝いてほしいですって!?

ここで見えてきたのは「女性が輝く日本」の中身は、女性は子どもを産む機械だ(2007年、柳沢伯夫厚労相の失言)とか、子どもを産むのが女性の義務だとか(2009年、麻生太郎首相の失言)、そうした女性へのあらゆる差別を撤廃していく決意表明でも何でもなく、人口が減ってしまったら経済も衰退するから、女性も結婚して、子どもを産んだら、とにかく「お国のために」働いて、経済効果を出してほしい。そういうことなのです。

2020年までに、指導的地位に占める女性の割合を30%まで高めるとはいうものの、すでに介護、出産、子育てのすべてを女性に依存しているような国で、さらに女性に負担を強いようとしているわけです。

これは変えようと思えば今すぐにでも変えていけそうなのです。が、私たちの社会が時間をかけてつくってきてしまったこうした差別の裏にひそむのは、心の奥にある常識と言う名の思い込みであったり、偏見であったりするので、そう簡単には変われません。

たとえば、私たちもこの東京都の議会のイジメの目撃者です。イジメの傍観者と言っても過言ではありません。ところがセクハラヤジ事件は「祭り」にこそなるものの、この社会を変える根本的な行動にはなかなか結びつきません。

ここで、問題を深く考えるために、フェミズムに詳しい哲学者の佐藤和夫さんの言葉を引用します。

「今の日本社会は、経済をどう運営するかという問題以外には、まるで解決すべき重要な課題はないかのように見える。しかし、それは本末転倒だろう。おそらく、経済の建て直しという名の下に、人々がさまざまな形でつくりあげてきた人間関係を破壊し、十七世紀に近代社会の本質を見抜いたホッブズの言うように、『万人が万人にとって狼』になり、『万人の万人に対する争い』の場が、あたかも社会であるかのように転倒させられてしまったのだろう。社会が争いの場でなく、人間同士が友人として支えあい、語りあい、交流しあえる新しい協同の場として、どうつくっていくのかが今こそ問われている。」

 誰かを批判して「祭り」にするのは、とても簡単なことです。でも、セクハラヤジ事件の行く方の困難さを考えると、それはベストではないかもしれません。まずは私たちのひとりひとりが、自分の中の偏見や差別と向き合っていくことが、偏見に満ちた社会に対し、より強い力を持つのかもしれません。
  

[参考文献]

三井マリ子『男を消せ!』毎日新聞社、1999。

佐藤和夫『男と女の友人主義宣言——恋愛・家族至上主義を超えて』はるか書房、2004。

本田一成『主婦パート最大の非正規雇用』集英社新書、2010年。

 Photo by Wikipedia

 

Credoをフォローする