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自己責任の広がり

2004年のイラク日本人人質事件を覚えているだろうか。その際、イラクの武装グループに拉致された日本人に対して「危険地帯と分かっていたはずなのにそこにいって拉致されたのは自己責任である」という批判が殺到したのである。それ以降日本社会では自己責任をめぐる議論が盛んになっていった。

もちろんこうした自己責任論に対しては批判もあり、一概に日本社会が自己責任論一色に染まっていったというわけではない。しかし、これを世論のレベルではなく、国の制度レベルで見てみると日本は確実に自己責任重視の方向に向かっていることが分かる。

その指標となるのが社会保障制度の弱体化である。なぜ社会保障制度の弱体化が進むと自己責任が増すのだろうか?

そもそも社会保障制度は連帯責任という近代社会の成立とともに新しく登場してきた基本理念の上に成り立っている(Ewald 1991)。自己責任は文字通り行為の結果の責任を個人が引き受けるのに対して、連帯責任は行為の結果の責任を連帯して分担する。

これは、社会を全体のレベルで見た時に常に一定の割合で発生するリスクに対してそれを社会の成員=国民で分担するために生み出された技術である。具体的には、事故・病気・老成・失業などの社会に偏在するリスクに対応するために労働災害保険・健康保険・国民年金・失業保険などが整備されていったのである。

そのため、こうした社会保障制度が弱体化すると、必然的にさまざまなリスクを個人が引き受けなければならないことになる。

事実、2008年に社会保障国民会議によって提出された最終報告書では「今日の社会保障制度は、少子化対策への取組の遅れ、高齢化の一層の進行、医療・介護サービス提供体制の劣化、セイフティネット機能の低下、制度への信頼の低下等の様々な課題に直面している」(社会保障国民会議 2008: 2)とされており、社会保障が以前のようには機能していないことが共通認識となっている。

 

自己責任の条件

ここまで話して来た内容は、ほとんどの場合政治の問題として回収された上で「大きな政府(福祉国家)」/「小さな政府(新自由主義国家)」などの国のあり方として議論される傾向にある。

しかし、今回はこうしたさまざまなリスクを個人が引き受けなければならなくなった社会、言うなれば自己責任社会について通常の政治的な議論とは少し異なる観点からそのメカニズムに迫ってみたい。

通常責任が付与される際には、常に誰か(何か)がさまざまな出来事の責任主体と見なされるための条件というものが存在する。例えば自然災害の責任を個人に求める事がほとんどないように、どんな出来事に対しても好き勝手に自己責任論が適用出来る訳ではない。ではその条件とはなんだろうか?

この責任が適応されるメカニズムを分かりやすく説明したのが、社会学者ルーマンのリスク論である。ルーマンによれば、ある個人の行為によって生じた出来事の責任がその個人のものであると見なされるには、その出来事の原因となった行為が個人によって選択可能であった、と見なされる必要があるという。

というのも、その個人が脅されていたり、何らかの強制的状態にあったりして選択の余地がなかったと見なされた場合には自己責任は適応されないからだ。つまり、自己責任の成立条件としては「選択可能性」が必要となる。

上で挙げた例で言えば、イラク人質事件の場合に自己責任論が成立したのは、人質になった人達がイラクに行くことを主体的に選択したと考えられたからである。逆に自然災害を自己責任とすることが出来ないのは、自然災害が被災者の選択によって引き起こされたものとは考えられ難いからである――

しかし、統計的に特定の自然災害が多く発生する地域に住み続けることを選択したと見なして自己責任論を主張することは論理的には可能だ。ただし、「選択可能性」だけでは自己責任の成立条件としては不十分である。

責任を個人に帰するには、個人がその行為の結果として特定の出来事が生じると知っている/知ることが一般的に見て簡単である、という条件も必要となる。再びイラク人質事件を引き合いに出せば、イラクは当時情勢が不安定であり日本政府により退避勧告が出されていた。

つまり人質となった日本人3名は、イラクの情勢が不安定であるという情報を知っていた/簡単に知ることが出来たにもかかわらずイラク入りしたために自己責任論が適用された訳である。

別の例では、2011年の福島第一原子力発電所の事故は、前代未聞の規模の地震によって引き起こされたために、その運営者である東電の責任とはされなかった(2013年時点)。

つまり、東日本大地震の規模の地震を予測することは出来なかったのであり、したがって福島県に原子力発電所を建てたことによって今回の原発事故が起きる事を東電が予測するのは不可能だった、と結論された訳である1)。

 

現代の自己責任の特徴

ルーマンによれば、このように「選択可能性」と「予測可能性」の2つの条件がそろって初めて自己責任は成立する。しかし、この事をよくよく考えてみると自己責任が広がる社会は一概に悪いものとは言えないことが分かる。

それは「選択可能性」=自由、と「予測可能性」=情報が社会に行き渡ることを意味するからだ。そうした社会では個人の諸行為の結果の見通しが立っており、さらに個人はそれらの諸行為を自由に選択することが出来るのである。

その中で生きる個人は自分の行為に対して責任を引き受けることに何の違和感も抱かないのではないだろうか。

しかし、現在の日本社会を見た時には、こうした「選択可能性」と「予測可能性」が拡張されたためにそれに伴って自己責任論が広がったとは言えない側面が多いのも事実である。上で見たように、現在はむしろ社会保障制度の機能不全などによってなし崩し的に自己責任が広がっている様に見受けられるからだ。

つまり、個人の行為の結果としてではなく実際には他の要因による影響が大きい現象に対しても、あたかも全て個人の選択の結果であるように見なしたり、あるいは実際には社会に依然として情報の偏りがあるにもかかわらず、社会の全ての成員が均等に情報を得られると見なしたりすることがあり得るということだ。

こうした状況をまとめると、現在の日本社会は実質的な自己責任の領域が拡張されている(選択の自由化と情報の平等化が進展した状況)というよりは、規範的な自己責任の側面が拡張されている(社会でリスクを分担することが出来ないために個人が過度に自己責任を引き受けざるを得ない状況)といえるかもしれない。

こうした中で、さまざまな問題の責任について考える際に簡単に自己責任論を振りかざすことなく、今一度立ち止まって「選択可能性」と「予測可能性」について思いを巡らせることが必要である。

その上で、自己責任とは見なせないが実際に社会的に連帯してリスクを分割するようなことが難しい問題については、まずその事実を認めた上で対策を考えていかなければならないはずだ。

その意味で規範的自己責任論の一番の問題点は、個人に責任を負わせることでさまざまな問題がそれ以上掘り下げられなくなってしまう可能性があることだといえよう。

[注]
1) ただし、福島第一原発事故の「予測可能性」に関する評価自体は定まっておらず今年の7月末には検察審査会が「起訴相当」を決議している。

[参考文献]
Ewald, Francois, 1991, “Insurance and Risk,” Graham, Burchell, Colin Gordon and Peter Miller eds., The Foucault Effect: Studies in Governmentality, Chicago: The University of Chicago Press, 197-210.
小松丈滉,2003,『リスク論のルーマン』勁草書房.
社会保障国民会議,2008,『社会保障国民会議 最終報告』.
山口節郎,2002,『現代社会のゆらぎとリスク』新曜社.

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