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NHKの大河ドラマ『黒田官兵衛』に登場したことから、どんな人物だったのかと検索ワードの上昇した「豊臣秀次」。「殺生関白」という悪名のあるこの人物の、実像はどうだったのでしょうか。

秀次は豊臣秀吉の姉の子どもにあたり、叔父と甥の関係になります。尾張の百姓で終わるはずだった彼の生涯は、秀吉によって大きく狂わされることになりました。

秀吉は弟の秀長、老齢になってからようやく生まれた実子・鶴松に相次いで死なれたため、自分の後継者としてこの甥を指名し関白職を譲ります。

ところがその2年後、秀吉は再び実子に恵まれます。ここで従来のドラマや小説では、自分の立場を危ぶんだ秀次が自暴自棄となり、酒色にふけって「殺生関白」と呼ばれるほどの悪行を繰り返したことになっています。民衆を的にして鉄砲や矢を射た、気に入らぬ料理人の腕を切り落とした、妊婦の腹を割いた、などの所業です。

そのため秀吉は彼を高野山に追放、謀反の疑いで切腹を命じ、妻や子、妾から侍女までの34名(諸説あり)を三条河原で処刑しました。

しかし、近年の研究の中には、この「殺生関白」に資料的な裏付けがなく、後世の作り話だと考える人も現れるようになっています。

そのような反「殺生関白」説を唱える根拠は、どこにあるのでしょうか。

「殺生関白」を最初に書いたのは『太閤軍記』の作者、太田牛一であると言われています。彼は一級史料である『信長公記』の作者でもありますが、秀吉に関する記述には史実に反することが多いのが認められています。

「殺生関白」に反論を唱える人たちは、反関ヶ原の戦い以降も豊臣家に仕えていた太田牛一は、恐らく豊臣家に不利なことは書けなかったと主張します。そのため、「秀吉は我が子可愛さのために無実の罪で秀次を切腹させた」という見解を否定するために、秀次を悪人に仕立てたのだと考えています。

実際のところ、秀次は豊臣軍の指揮官として数々の戦争に従軍してその任を務め、また領主となった近江八幡においては現在の近江八幡市発展の礎を築き、さらには文化人でもあったことは確かなようです。

人には二面性があるものですが、どちらが正しい秀次であるのかは、これからの研究に期待したいですね。

Photo by flickr

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