バチカンが「福者」認定を検討している高山右近の人生

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高山右近がこの度、没後400年となる2015年に、カトリックで「聖人」に次ぐ崇敬の対象である「福者(ふくしゃ)」として認定される可能性が高いとバチカンの高官が語った事で再び注目を集めています。

「高山右近(たかやまうこん)」とは、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将で、キリシタン大名です。

大和国(現在の奈良県)沢城主高山友照(たかやまともてる)の長子として摂津(現在の大阪府)高山で生まれました。父の友照は、初めキリシタンの撲滅を図っていましたが、宣教師の話を聞き感銘を受けた事により入信し、家族と家臣を洗礼に導いた為、右近も1564年(永禄7年)に12歳でキリスト教の洗礼を受け、ユストと言う洗礼名を得ました。

高山右近は1568年に、織田信長が足利義昭を奉じて上洛する際、父の友照と共に高槻城主の和田惟政の組下につけられました。ところが惟政が池田氏との争いで討死し、高槻城を惟政の子・惟長が引き継ぐと、これを好機と見た高山親子は1573年に惟長を追放し、この時信長より摂津の支配権を得ていた荒木村重の支配下に入る事で、高槻城城主となりました。

右近は仁徳の人として知られ、小西行長、黒田考高などの多くの大名が彼の影響を受けてキリシタンとなっています。また、洗礼を受けませんでしたが、細川忠忠興、前田利家などは、キリシタンに対して好意的でした。

1587年に伴天連(バテレン)追放令が施行された際、友近は信仰を守る事と引き換えに領地と財産を全て捨てる事を選び、世間を驚かせました。

その後は、小西行長に庇護され隠れ住んでいましたが、1588年に前田利家に招かれ、加賀藩の客老となり藩政にも参与しています。

しかし、1614年、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、マニラに追放されることとなります。

イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた友近は、マニラでスペイン人のフィリピン総督らから大歓迎を受けましたが、到着して40日ほどで熱病に冒され、1615年2月3日に64歳で息を引き取りました。

葬儀は総督の指示によってマニラ全市をあげて盛大なミサが執行されました。

Photo by flickr

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