映画『ショート・ターム』が突きつける、あなたは「家族」に「何をどこまで」打ち明けているか

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11月15日に公開された映画『ショート・ターム』の、東京大学での事前試写会に出る機会を、筆者は得ました。その試写会後の懇親会で、本作で多数のアワードを受賞することになった監督のデスティン・グレットン氏と長く話し込む機会も得ました。氏の恩義に応えるためにも、ここに批評を書かせていただきます。

作品の舞台は、虐待を始めとした色々な事情で親とは暮せなくなったティーンエイジャーをケアするアメリカの短期児童養護施設です。この映画は、ここで働くケアマネージャーである主人公のグレイスと、親から虐待を受け心に傷を抱えた子ども達の「心の交流」を描くヒューマンドラマだとされます。

自身も父親に虐待を受けていたケアマネージャーのグレイスが、虐待されていたという自身の秘密を、同じく父親に虐待を受け保護されたジェイデンに打ち明ける、というのが映画のクライマックスです。このエンディングを受け、「穏やかで柔らかい感動のものがたり」であるとされます(映画のパンフレットより)。

ですが、この作品において描かれている本質は、そう呑気なものではありません。ここで描かれているのは、「短期」(ショート・ターム)児童養護施設で営まれる、まさに期間限定の「疑似家族」が、婚姻・血縁関係で結ばれる「本当の家族」を上回る濃密さを持つという現実です。

本作は、現代を生きる我々にとっての死活問題となりうる、「家族」概念をめぐる先進諸国の意識の揺らぎを照らしています。

 

「家族」の揺らぎ~「同じ釜の飯」を食うこと?

昨今、先進諸国で「家族」概念の定義が不透明化してきました。婚姻関係と血縁関係が「家族」を織りなすと見なされてきた時代(核家族!)を経て、「家族」のあり方は多様化しつつあります。

先進諸国に見られる、同性婚の容認や、籍を入れない事実婚の広がりや、ステップファミリーと呼ばれる、共に子連れの者同士の結婚の一般化はそれに対応しています。概して、従来の「家族」の枠組みを、拡張していると言えるでしょう。

少し、学問的な知見も借りましょう。社会学における「家族」の定義を参照します。20世紀前半の旧社会学においては、「共住共食関係を有するもの」を「家族」と定義してきました。同じ釜の飯を食うものこそが「家族」だ、と見なされたという社会的事実があります。

しかしながら、現代社会学においては違います。交通手段の充実化やインターネットの普及による連絡の利便性の向上に伴い、人びとの流動性が上がり、共住共食関係は崩壊しました。「夫の単身赴任」や「子どもの大学合格による上京」がその例でもあります。

これを踏まえ、「それでも私達って、家族だよね」というような、「情緒的」な共通前提を有するものが「家族」であるということになりました。家族であると「思う」、ただその「気持ち」だけが、家族を家族たらしめる、ということです。

社会学者のA.ギデンズによれば、現代社会は「純粋な関係性」に覆われているといいます。「純粋な関係」とは、ただ関係を結ぶことそのものが自己目的化 することです。純粋で「ない」関係性とは、この人とつながっておくと得であると判断した場合の関係性のことです。ギデンズによれば、純粋な関係性の特徴の 一つは、利害関係がないが故に、いつでも関係性を終わらすことができることで、昨今の離婚率の高さもそれで説明できる、といいます。(なくてもつながりますが、一応。)

国際結婚によって形成されたグローバル家族を取り上げた、社会学者カップルのベック夫妻による『愛は遠く離れて』という書籍は、タイトルの通り、グローバル化がもたらした「遠距離の愛」について記述しています。そう、近接して住むことによる、共住共食関係は「家族」の必須の条件ではなくなったのです。ただ、「私たちは家族」であるという気持ちの共有さえあれば、家族となれるのです。

 

「共通の情緒」を持つことの困難さ

これが、昨今の「家族」の困難を象徴します。「子どもに飯を食わせること」は簡単でも、「親子で共通の情緒を持つこと」は、何をどうすれば正解になるのかが、不透明です。

個室化やネット化が、「家族」の困難に更に拍車をかけます。「同じ屋根の下」にいながら、「違う世界を生きる」のが当たり前になるのが、現代社会です。親は子供が個室で、SNSを使って誰と何をコミュニケーションしているのかを、捕捉できません。そうなると最早、同じ釜の飯を食うだけでは、「私達は家族」という気持ちを共有することが、困難となります。

それ故、映画『ショートターム』において、「食事」が一度も描かれないという批判もありますが、それは検討違いであると言えます。現代社会においては食事をしたところで、「家族的なるもの」のための情緒が構築できるとは限りません。

それにも関わらず、映画においては、ケアマネージャーであるグレイスと、入所してきたジェイデンとの間に、「情緒的な共通前提」が形成されます。それが冒頭の「秘密の共有」です。

 

「秘密の共有」による「家族」化を描く

映画においては、グライスが、彼女自身のパートナーにも隠してきた、ある秘密を吐露し、ジェンデンとの「秘密の共有」が果たされるまでの困難が丁寧に描かれます。それ自体は、本当に美しい話です。ですがポイントは、このような高いハードルを経ないと、「家族」を形成することそれ自体が困難であるという本作の指摘にあります。

共住共食関係なるものが崩壊した今、「家族」を形成するためのハードルは、とてつもなく高くなっています。その中では、グレイスが抱えたような、「心の傷」すらそのための武器になりうる。それを乗り越える「感動」が、本作では描かれる。故に、その濃密さに観客は酔います。

ただし、本論で述べてきた通り、ただ酔うだけでは、本質を見逃します。現実に、我われは「家族」に、「何をどこまで」話せているのでしょうか。現代社会を襲う「家族的なるもの」の困難さ、とくとご覧あれ。

ショートターム

[参考文献]

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