【読了時間:約 4分

『はじめての編集』の著者である管付雅信氏は、出版物だけでなくウェブ・広告・展覧会までを「編集」しています。そんな氏の「編集」の定義は、「企画を立て、人を集め、モノをつくる」こと。この3つさえ揃っていれば、メディアを問わずその行為は編集だ、と言い切ります。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 知の独占を崩すニューメディア

ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』という、全世界で5000万部売れ、映画化もされたミステリー小説があります。そこで描かれている中世のキリスト教社では、教会は巨大な図書館を所蔵し、各種の専門家も揃えていました。

つまり、教会というのは印刷物が普及する以前から図書館であり学校であり、あるいはシンクタンクでありカウンセラーであり、今の世の中で言うとグーグルのようなものでもあったんです。世界中の知識をアーカイヴして、人々の問いに答える場所だったわけです。(p.017)

このような、教会による知の独占は、グーテンベルク革命によって崩れます。グーテンベルクが最初に印刷したもの、それは聖書です。彼は熱心なキリスト教徒で、聖書を広めたいがために、活版印刷を発明したことが知られています。

 

 内容は常にそれ以前のメディアのものである

ポイントは、活版印刷発明によって広まったもの(聖書)のコンテンツ自体は、決して新しいものではない、という点です。エリック・マクルーハンが「新しいメディアの内容は、常にそれ以前のメディアである。」(『メディアの法則』より)と喝破したように、これは現在でも変わらぬ趨勢だと著者は指摘します。ハイビジョン・テレビで昔の映画を見たり、ビートルズなどの高音質CDが売れたりするように。

このマクルーハンの指摘は、ネットメディアに関わる者にとって耳が痛い話だと思います。筆者も思い至るところがあります。昨年11月に、東京大学の文化祭にてニコニコ生中継を仕掛けました。 「ネットを見ながら学園祭に行った気分になれる!」と、一見すごく新しいことをしているようですが、考えてみれば、文化祭という昔からずっと続く伝統行事を、ネット動画という新しいメディアの形式に載せただけです。

とはいえ、この「形式」こそが、編集の腕の見せ所かもしれません。

編集という言葉の氾濫と時を同じくして、デザインの領域も拡大していると管付氏は言います。一般になじみのある印刷物や雑誌、衣服やウェブサイトなどのデザインの他にも、人々の社会参加を促すソーシャル・デザインといった言葉も出てきているからです。

 

「編集の形式こそが内容であり、形式はメッセージである」(p.164

管付氏の結論に沿えば、デザインとは「モノの見方を具体的に示すこと」だそうで、編集とデザインはじつはとても近く、互いの領域をクロスする行為であるといいます。そして、メディアにおけるデザインとは、コンテンツのスタイル=形式を決める行為であり、この形式を自覚的に操ることが、編集の醍醐味であるといいます。

書著で紹介されているウェブサイトとして、例えばフランスのラジオ局「ラジオノヴァ」のウェブサイト『novaplanet』は、ラジオノヴァが『NOVA』というインデペンデントな雑誌から生まれていることもあり、手書き文字が多用された、雑誌的なごった煮感、ヘタウマ感が溢れています。

このニュースサイトCredoはどうでしょうか。東京の都市風景が壁紙に設定されていて、また各記事にビジュアルな素材を貼りつけていることもあり、スタイリッシュな都市生活者向けのサイトといった趣がします。また短文記事の「トレンド」よりも、各ライターの専門分野について執筆した「ピックアップ」を目立つように配置してあったり、またライターのプロフィールを公開していたりと、ライター個人の実力による専門記事の質を大事にしたい姿勢が伝わってきます。

 

本来、編集という言葉の通り、「編んで、集める」それだけで企画になります。各種キュレーションサイト・バイラルメディアが「編集部」を持っていることが好例でしょう。

しかし、そうであるが故に、逆に一次的・直接的なファーストハンドの情報を載せる媒体が貴重になってきていることも事実だと、著者は指摘します。

これは、「新聞」に関わる筆者にとっても重大なマターです。今回のイベントで対談される御三方は、このような趨勢に対して、何を語り合ってくれるのでしょうか。

Credoをフォローする