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カンヌ国際映画祭ある視点部門で黒沢清監督[※1]の作品『岸辺の旅』が監督賞を受賞し話題となっています。

読者の皆様は黒沢清監督作品のようなカンヌ国際映画祭やヴェネツィア国際映画祭で賞を獲ったアート映画がどのような場所で上映されてきたかご存知でしょうか。実は日本の80年代以降のアート映画を支えてきたのは主にミニシアターと言われる独自の映画プログラムを組む劇場や過去の名作を上映する名画座です。

いま、これらの劇場は危機に瀕し、映画を上映する環境も大きく変化しています。そうした潮流のなか独自の取り組みをし、東京の映画ファンの中で大変な注目を集めている映画団体があります。

この記事ではその話題の映画団体IndieTokyoの主宰者で映画評論家の大寺眞輔さんにお話を伺い、現在のアート映画の危機的状況とIndieTokyoの取り組みについて、貴重な声を届けたいと思います。

(前後編に分けて掲載。後編は5月31日(日)に公開)

 

 横浜でシネクラブを始める

--まずは、大寺先生が映画批評家としてどのようなバックボーンを持つのかお聞かせください。

大寺:僕は大阪出身で早稲田大学演劇学科の修士課程を卒業しています。

大学時代にフランスの高名な映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』の日本版『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』を立ちあげた映画批評家の梅本洋一さんや稲川方人さんと知り合い、その流れで自然と『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』にも批評を書くようになったのが映画批評家としての始まりです。

--2004年からはアンスティチュ・フランセ横浜[※2]でシネクラブを主宰されていますね。

大寺:その頃、日仏の文化交流を支援するフランス政府公式の機関アンスティチュ・フランセの人たちの間でシネクラブを立ちあげたいという話が持ち上がりました。でも、アンスティチュ・フランセの人たちだけではどうやってシネクラブを立ち上げたらいいかわからないから映画批評家の人に任せたいということで僕に声がかかったんです。

--シネクラブとはどのようなものか詳しく教えてください。

大寺:シネクラブでは映画の上映をしたあとにトークがつきます。なぜトークを付けるのかというと映画はことばを欲しているからだと思うんですよ。

映画というのは一つの世界観を表現したもの。その作品世界の中で私たちは色んな体験をして楽しみを得ることができるんだけれど、その世界に入ったあと出てきましたというので終わらないのが映画なんだと思うんです。

映画を見ると映画の世界について人と語りたくなる。映画というのは映画批評と二人三脚でやってきた部分があって、私たちは映画を見たあとに映画批評を必要とする。映画批評があることによって、私たちは映画を2倍も3倍も楽しく見ることができます。そういうことを実現する場所がシネクラブです。

--横浜のシネクラブでは、具体的にどのような活動をされていましたか。

大寺:僕が主宰するシネクラブは完全にシネフィル(映画狂)向きのものでした。

第1回で上映したのは、フランスの女性映画監督クレール・ドゥニ[※3]の『ネネットとボニ』という映画です。そのときは『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』で同じく寄稿者だった青山真治監督[※4]にゲストとして来てもらいました。5月29日にこの映画をまた東京の老舗名画座の新文芸坐で上映します。

1ネネットとボニフライヤー画像

新文芸坐シネマテークvol.4 クレール・ドゥニpart2

最初は横浜日仏学院の教室の中で始めて、次は横浜美術館の講堂で開催しました。横浜美術館の講堂はすごく大きくて300人くらい入るところだったんですが、そこに20人しか来ないということもあってその時は本当に悲しかったですね。

初期は本当に集客に苦労しました。いまは横浜の馬車道にある東京藝術大学大学院映像研究科の映写室を借りて開催しています。

--どうしてそのような活動を始めようと思ったのですか。

大寺:ごく一部の映画好きのために、ジャック・リヴェット[※5]のような世界的な映画監督の作品や日本に紹介されていない作品を紹介したかったんです。バブル以降ミニシアター文化が衰退していったけれど、シネクラブを始めた当初はまだ多くのミニシアターがあって安泰だったから、そこではなくもっとコアな層に向けて映画について語ろうと考えていました。

 

 1980年代は文化の黄金期

--ミニシアター文化というのはどういうもののことなんでしょうか。

大寺:80年代くらいからミニシアターというがあちこちにできて、ミニシアター周辺の文化が栄えたんです。その頃は現在のユーロスペースやシネマシャンテ、シネマライズのような、渋谷・銀座を中心に独自のプログラムを組む小規模の映画館がたくさんありました。

80年代後半から90年代初頭にアート映画の黄金期があったんだけれど、バブルが崩壊してセゾン文化の衰退とともにミニシアター文化も衰退していきました。

--私は90年生まれで80年代の映画文化というものに対しあまり実感が湧かないのですが、どのように映画文化が栄えたのですか。

大寺:当時はバブル経済で世の中が華やかになっていく時期で、僕は高校生のときから受験勉強なんかを口実によく東京に来ていました。

1980年代のミニシアター文化にはセゾングループというバックが明確にありました。儲かっていたとは思えないんだけれど、セゾングループの会長の堤清二さんが文化人だったから、彼らの努力でセゾン美術館やリブロ、シネセゾンといった文化施設が維持されていました。

その頃は僕自身も大阪から東京に出てきて、自分の人生が変わるタイミングでした。映画自体は中学くらいから見ていたけれど、それと全然違う規模と質で世界中の映画・音楽・小説といった文化に触れることが出来た。ちょうど日本にそういったものが入ってきた時期でもありました。

マドンナのようなメジャーな歌手からザ・シュガーキューブス[※6]のようなマイナーなバンドまでを同じレベルで楽しむことができる、ボーダーレスで、フラットで、様々な刺激があって、毎日おもしろいものがあった時代です。個人的な人生の転機と日本の文化・社会の成熟というものがタイミングよく重なったんです。

--そうした文化に触れて大寺先生はどのように感じましたか。

大寺:『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』と関わる中で、僕は学生だったんだけれど世界的な映画監督になっていく篠崎誠さん[※7]や青山真治さん、黒沢清さんのような人たちと対等に話せたんです。年上の映画評論家の人も僕のことを対等に扱ってくれました。

そこで原稿料としてもらうお金以上の体験を得られて、それはすごく貴重なことでした。お金はなかったけれど、社会全体が浮ついていて、本当に楽しくて、文化に触れるのはこういうことなんだという感覚がありましたね。

そういうことはいまはもうないですよね。社会全体が貧しくなっているというのもあるんだろうけど。景気の問題も大きいし、個人でどうこうできるレベルではないから、もう取り戻せない文化だけれども、ただいまの文化の状況はひどすぎると思いますね。

 

 アート映画の危機的状況

--いまの文化の状況についてのお話が出ましたが、いま世界的に映画はどうなっているのでしょうか。

大寺:日本に限らず世界的にマイナーなものが見られなくなっていますね。グローバリゼーションが進展してなんでも効率重視になっている。昔は、一本ヒット作を作ればそれを作った人が、ある程度文化のためには必要だからという理由で売れないものを作る隙間があったんだけれど、世の中全体から隙間がなくなってきています。

例えば、ジム・ジャームッシュやヴィム・ヴェンダース、マノエル・ド・オリヴェイラといった世界的なアート映画を作る映画監督をプロデュースしていた人たちが昔はいっぱいいましたが、いまは世界で10人くらいしか残っていないと言われています。現役のプロデューサーたちもみんな高齢だから、作家の世界を自由に表現するアート映画を作る人たちはどんどん減っています。

監督がいくら変わったことをやりたいと言ってもそういうことを許してくれるプロデューサーがいないとどうしようもないので、世界的に見てもアート映画を撮る余地はなくなってきていますね。アート映画が生きていけるような場所がなくなっているというのは間違いないです。

【プロフィール】
大寺眞輔(おおでら・しんすけ)
映画批評家、早稲田大学講師、アンスティチュ・フランセ横浜シネクラブ講師、新文芸坐シネマテーク講師、IndieTokyo主催。主著は「現代映画講義」(青土社)「黒沢清の映画術」(新潮社)。

注釈一覧

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