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編集長が考えたことなどを書くコーナーです。

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こんにちは、@keimaejimaです。

毎日ニュースなどで、テクノロジーの進歩に関する話を聞かない日はないですね。

多くの場合、テクノロジー関連の話題はポジティブなニュアンスで語られています。
テクノロジーはきっと僕たちの日々の生活や労働を楽にそして豊かにしてくれると信じられています。

一口に「人間を豊かにする」と言っても、世の中のテクノロジー関連のサービスや企業がその背景にしている思想は大きく二つに分けられると思います。

一つは「人間の能力を拡張することで豊かさを獲得できる」という思想。もう一方は「人間のまわりの様々なわずらわしさを解消することで豊かさを獲得できる」という思想です。

前者をApple型、後者をGoogle型と言っても良いかもしれません。

 

Apple型とは

ここで言うApple型の思想は、テクノロジーによって人間の身体や感覚を拡張しようする考え方を指します。

Appleがスティーブ・ジョブズによって強力にその技術開発・商品開発を先導された企業であることはあまりにも有名です。

スティーブ・ジョブズは「人間はこうあるべき」という確固たる未来像を持ち、「その新型ツールを使って、人類はなにができるようになるのか?」というテクノロジーによって人間の能力がどのように拡張されるのかを意識していたと言われています。

メディア論の大家であるマーシャル・マクルーハンは技術を「人間の身体を拡張するものである」ひいては、「人間の感覚を拡張するものである」であると考えました。

つまり、技術によって今まで見ることができなかったものが見れるようになったり、コミュニケーションの範囲や仕方が変化したりそういった類です。

もちろんAppleだけではなく、FacebookやLINEなどのコミュニケーション系のサービスを提供する企業や、Adobeの製品などもこうした思想に関連していると考えることができます。

 

Google型とは

Google型の思想は、テクノロジーによってこれまで人間が行ってきたわずらわしいもの、人間が行うべきではないものをテクノロジーによって代替することを目指します。

Googleが創業当初から「世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスできて使えるようにする」というビジョンを掲げていることもまたとても有名ですね。

このビジョンは「情報の収集や整理は人間がやるべきことではなく、テクノロジーがやるべきであり、人間は思索やコミュニケーションに時間を使うべきである」と読み替えることができます。

AIなどの最先端の情報技術だけではなく、洗濯機や掃除機といったおなじみの家電もこうした思想に基づいて作られていると考えることができます。

GoogleがGoogleグラスを作っているような例もあるので、あくまでこの二つの分類は便宜的なものであるということは留意してください。

 

テクノロジーの発展の先にあるもの

では、こうした思想に基づいたテクノロジーが発展し続けた結果、人間や社会はどのように変化するのでしょうか。

どちらについてもポジティブな未来とネガティブな未来の両方を想定することができます。
たとえば、Apple型の思想に基づいたテクノロジーが発展し続けた未来をポジティブに捉えるならば、人間は今までできなかった創造的な作業を容易に行うことができるようになり、イノベーションが各所で起こり、人はより充実した人生を送ることができると考えることができます。

一方で、ネガティブに捉えるならば、人間はその活動をテクノロジーによって制御されると捉えることもできます。

先に挙げたマクルーハンですが、「メディアはメッセージである」(The medium is the message)という有名な言葉を遺しています。

これは、仮に私たちが頭の中にある同じメッセージ(意味・内容)を伝えようとしても、メディアのあり方によって表出されたメッセージ、そして私たち自身の振る舞い方も変化するから、結果としてメッセージ自体も変化してしまうという意味です。

どんなメディアを仲立ちとするのかによってメッセージの内容が変容してしまうのはもちろん、私たちの振る舞いも変化してしまうのです。

身近な例でたとえるならば、紙の手紙とLINEで同じことを伝えようとしても、相手に伝わるメッセージや、それを伝えようとする人自身の振る舞いが異なるといったことを考えるとわかりやすいと思います。

マクルーハンはメディアをより広義に、テクノロジーとほぼ同義に捉えていたため、「テクノロジーはメッセージである」と訳しても良いかもしれません。

つまり、テクノロジーが発展し、私たちの生活の隅々にいきわたったとき、私たちの振る舞いは常にテクノロジーによって規定され、「テクノロジーの奴隷になる」とネガティブに考えることもできるということです。

一方で、Google型のテクノロジーの先にはどのような未来が待っているのでしょうか。

ポジティブに考えるならば、人間のまわりにある人間がやるべきではない作業をテクノロジーが代替してくれるようになって、人間は人間らしい行いに集中することができるようになると考えることができます。

そうなった時に人間は何をしているのか、そしてGoogle型の思想が想定している「人間らしさ」とは何なのかについてのヒントは歴史の中にあります。

たとえば、古代ギリシャ時代の裕福な人々は1日の多くの時間を娯楽や思索のために使っていたと言います。

そうした人々は人類が忌むべき制度ではあるものの奴隷制に支えられており、生きるために必要な生産活動や身の回りのことを一切する必要がありませんでした。

そのような状況で人々は「世界を成り立たせているものは何か、人間とは何か」などといったことについて考え続け、哲学や数学の基礎を築きました。

プラトンの「饗宴」などを読むと、ひたすら「愛とは何か」について語り合っていて、いかに彼らに時間・精神的余裕があったのかがわかります。

一方でGoogle型のテクノロジーがつくる未来をネガティブに捉えると、また人間は「テクノロジーの奴隷になる」でしょう。

これは、たとえば人間の活動や身の回りの世話をテクノロジーが無限に代替していった結果、玉ねぎの皮をむくように人間の労働や活動が剥がされていき、究極的には何も残らなかった場合などが該当します。

つまり、「人間らしさ」などどこにもなく、人間がただテクノロジーの導くままに寝食を行い、ただただ生を全うする存在になるということです。

映画「マトリクス」的なディストピアとも言えます。

 

「テクノロジーはツールであり、その使い方次第で人間にとって利益にも不利益にもなる」といった意見もありますが、上にあげたように既に人間はテクノロジーに取り囲まれており、テクノロジーによってある程度意思決定や振る舞いを規定されています。

そういった意味では、既に僕たちには自由意思などないのかもしれません。

どうせなら未来はより良いものになって欲しいので、テクノロジーを使う立場であり、作る立場にも足を突っ込んでいる自分としてはこういったことに自覚的であり、より良い未来をつくっていければと思う次第です。

※こちらの記事は「keimaejimaの日記」からの転載記事です

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